2016年9月

シニアも仕事をしてお給料をもらう方が楽しくて社会貢献になる!!

皆様、こんにちは。

日本初のモップメーカー日之出株式会社の松本ゆり子です。

日之出では大勢のシニアメンバーが活躍しています。
ディミーティングでは、いつも熟練のシニアは会社の宝、できれば100歳までも勤めてほしいとお願いしているのですが・・・
勤続三十数年のよしこさんから退職願いが出ました。
控えめで優しい方ですが、縫製技術は一流、きれいなお仕事をしてくださっています。

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ミシン仕事が大好きで、ご主人が亡くなられた後も、生きがいを持って働いついてくださっていたのですが・・・右腕が痛くてドクターストップがかかったのです。

聞けば、数十年前に脛骨を痛めて手術して良くなっていたところが、最近痛みが出てきたとのこと。以前から息子さんには、「そろそろ家でゆっくりしたら」と勧められていたこともあって、決断したようでした。
とても残念でしたが、お身体のことですので、仕方がありません。

同じ年代の方が辞めるとなると、社内に影響が出てきます。

日本の経済的発展を支えたシニアの皆さんには、特別な美学があります。

「仕事ができて、惜しまれるうちに辞めたい。」

家族の方々も、家でのんびりしてもらうのが、本人の仕合せと思っている風潮もあります。
でもそうでもないのです。

仕事の好きな人は、できるだけ長く会社に勤める方が断然楽しいのです。
お給料をもらうということは、社会の役に立っている証拠です。

幾つになっても人や世の中のためになれることが嬉しいのです。
福祉でお世話になるより、人の役に立てる方がはるかに楽しい・・・

こんなことを話して、シニアのKさんやTさんに後数年勤務していただくようお願いしました。

高齢化社会を迎えた日本、これまでと同じ福祉サービスは難しいと心配されています。

できるだけ長く働いて、役に立つことは大きな社会貢献だと確信しています。

日之出は、若い人もシニアも気持ちよく楽しく働けるよう環境を整えたいと思います。

 

ゆりこ


NHK朝ドラ「花子とアン」の村岡花子さんと、「とと姉ちゃん」の大橋鎮子さんへの想い。

皆様、こんばんは。日本初のモップメーカー日之出株式会社の松本ゆり子です。
Facebookでは過去のこの日の記事が出てくるのですが、過去の記事を見ていて、ず~と昔の子供の頃を思い出しています。

私は小学3年生から短大まで東京大田区の大森で過ごしました。
学校の図書室の本や家の本は全て読みつくし、「本キチガイ」と呼ばれていた小学生5~6年の頃、近所に親切なおばさんがいると聞いて二日とあけず通い詰めたのが、翻訳家の村岡花子さんの自宅離れに作られた文庫でした。
「赤毛のアン」はじめ「王子と乞食」や数々の小説は想像力や勇気やいろいろな良い影響を与えてくれたと今でも感謝しています。

二年前たまたま出張で訪れた大森で、村岡花子さんがモデルのNHK朝ドラ「花子とアン」の最終回を見ることができ、母校の小学校や村岡文庫の辺りを散策し、従兄弟の家も訪問できてとても嬉しかったです。

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私が小学4年生の時、建て替えた校舎がまだ使われていました。

大田区役所が隣とあって、全館スチーム暖房の最新鋭の建物でしたが、さすがに耐震補強のためか筋交いが入れられているようでした。

同じく大森の中学三年の時、「暮らしの手帖」の記事に影響を受けて、進学した高校の大先輩である大橋鎮子さんがモデルの「とと姉ちゃん」がもうすぐ最終回を迎えます。
母校が掲載されたバックナンバーを見つけて、来月末の東海地区の同窓会で皆様にご披露できればいいなぁと一人でにやにやしています。(*^^*)/

ゆりこ


ビジネスマンも名前を変えていい!年初からゆり子と名のっています。

皆様、こんばんは。 日本初のモップメーカー日之出株式会社の松本ゆり子です。
戸籍上は百合子なのですが、今年の年賀状から平仮名でゆり子と名のっています。

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私が生まれた時、庭一面に百合の花が咲いていたことから、父が付けてくれたそうです。
小学校の時は、「ゆり」と読めなくて「ひゃくあいこ」とか「ひゃくわっと」とかからかわれたり、中学生になってからは、「百合子というと凄い美人かと思ったら、とんでもないお転婆」なんて言われたこともありました。

自分でもちょっと気恥しかったのですが、大好きな父が付けてくれた名前が気に入っていました。実家は占いとか縁起は全く担がない家風でしたので、字画とか全く調べたことがありませんでした。

お嫁に来た松本家は、大安吉日や方位などを重要視する家でしたので、子供の名づけのため初めて勉強してみると「松本百合子」はどうも字画が悪いようなのです。人生に最も影響する総画が凶で遭難運なのだそうです。

子供たちは両親の奨めで、三人とも深川の八幡宮様で良い名前をいただいたのですが、私の字画のことが心の奥に残りました。

その後、家族の病気や困難に遭遇するたびに少し気になっていました。

20001年の秋、父と主人が相次いで亡くなり、母も重病で倒れた時には、さすがにショックでした。青天の霹靂で社長になってしまったので、署名することも多く、名前を軽軽の変えることもできないと日が過ぎていきました。

そんな時、ある会で出会った一流会社の社長様が名前を変えられていたのです。
運がよくなるならどんどん変えるとのこと、部下や関連会社方たちも見習って、多くの方々が名前を変えていました。

ビジネスマンも名前を変えていいんだ!

目から鱗のように新鮮でほっとしたことを覚えています。

昨年の暮れ、年賀状印刷の折、ためしに名前を変えてみることにしました。
ちょっと辛いことがあったのです。松本百合子を松本ゆり子にするだけで素晴らしい運勢になるというのです。

個人だけでなく、会社も変えてと社員さんに依頼しましたら、何の質問もなく「はい!は~い!」と応じてくれました。それどころか、名刺も変えましょうかと手配までしてくれました。

年賀状を出してしまってから、ちょっと気になったのですが、年始のご挨拶に伺った時も、誰からも何も言われませんでした。

自分以外の人々はあまり気にしていないようです。
署名するときも仕事や正式な書面だけ戸籍通りに書けばいいのです。

Facebookも変更しようとしたのですが、上手くいかなかったので保留してありますが、親友がコメントに必ずゆり子さんと書いてくれるのが嬉しいです。

名前を正式に変えるのはとても難しく,気持ちにも抵抗もありますが、通称を変えるのは簡単です。自分で宣言するだけでいいのです。そんな簡単なことも数十年も思い浮かばず、内心気にしていたなんて、私もまだまだ未熟です。

出来ないって決めつけていただけなのですね。
案外そんなことが多いのかもしれないと、思う秋の夜です。

 

ゆりこ


9月15日は旧「敬老の日」、亡き父の誕生日です。

皆様、こんにちは。
日本初のモップメーカー日之出株式会社の松本ゆり子です。

今日9月15日は旧敬老の日、実家の父の誕生日です。
父が生まれたのは1920年、日之出の創業年と同じですので、存命ならば96歳です。
実は松本の母も1920年10月7日生まれです。

生まれた時期も20日ほどしか違わない二人は、共に申年生まれ、人好きで朗らかな人柄でした。
その二人が同時に病が重くなり、父と同居の姪の結婚式も重なってハラハラした六年前、11月末に母が、20日ほど後の12月に父が天国に旅立ったのでした。

今年11月にはそれぞれ東京柴又と船橋のお寺で七回忌を催すことになりました。
生前には曾孫を抱かせてあげることはできなかったけど、今回の法要では、幼子たちが賑やかに参加してくれる予定です。

同じように明るく楽しい性格の二人でしたが、父は九十歳まで車を運転して趣味のビリヤードに通い、安楽死協会の書面を医師に見せ、無駄な治療を断わり、最後まで自分らしさを貫くことができました。脳溢血のため九年も病院で寝たきりだった母が可哀相でなりませんでしたが、眠るように安らかだったのが救いです。

若いころ父はビルマのインパール作戦に参戦して、飢えとマラリヤの病で髪が真っ白になるほどの辛苦をなめ、母は東京大空襲で焼け出され、乳飲み子を抱えて大変な思いをして生きてきました。

戦後は日本復興のため中心になって働いてきた年代です。

聞くところによると、「敬老の日」は、昭和22年に兵庫県の村長さんが、子どもを戦地に出した父親、母親の苦労に感謝して労うため、「としよりの日」を制定、55歳以上の方をオート三輪でお迎えに行って、余興とご馳走でもてなしたのが始まりだそうです。

55歳という年齢には驚きますが、そのころの定年はその歳くらいだったのです。
さすがに今では招待するのは70歳以上になっているそうです。

今でもその町の小学生は、夏休みの宿題で読書感想文と80歳以上のお年寄りへのお手紙を書くのが習わしとなっていて、おじいちゃん、おばあちゃんの絵のコンクールや、敬老の歌まであるそうです。

敬老の日発祥のまち多可町

昨今、高齢化が進み国も大変ですが、敬老の精神だけは失わないで欲しいと思います。
12月に90歳になる実家の母が元気で幸せであって欲しいと祈る毎日です。

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豊橋の完和万染さんに作っていただいた戦友会の記念品です。
父がすごく喜んでくれて良かったです。

 

ゆりこ


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